『母親で居られなくなった私』
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母親でいられなくなった私
最近、コータの様子がおかしい。
朝ごはんを食べながらも、ぼんやりと窓の外を見ている。箸が止まったままのときもある。夜も遅くまで部屋に閉じこもって、ドアを開けても「なんでもない」と小さく呟くだけ。二十歳を過ぎた息子が、急に子供に戻ったみたいに弱々しく見えた。
あの日、学校から電話が来た。
「コータくんがクラスメイトと喧嘩をして、相手の腕に怪我をさせてしまったんです」
相手は同じ学年の拓也くん。コータとは昔から仲が良かったはずなのに。先生の話では、些細なことから口論になり、コータが突然手を上げてしまったらしい。幸い骨折まではいかなかったけれど、しばらく通院が必要だと。
母子家庭の私たちにとって、学校からの電話はいつも胸がざわつく。コータが小さい頃から、女手ひとつで育ててきた。パートを掛け持ちして、学費を捻出して、それでも「お母さん、ありがとう」って笑ってくれる息子が誇りだった。だからこそ、こんなことでコータの将来に傷がつくのは絶対に避けたかった。
翌日、私は拓也くんの家を訪ねた。
インターホンを押す手が震えた。謝罪に行くと決めたとき、コータは「俺が行く」と言い張ったけれど、母親が頭を下げるのが一番効くって、昔からそうだったから。
ドアが開くと、拓也くんが立っていた。
ギプスをした腕を吊って、でも目は妙に落ち着いている。二十歳過ぎの男の子の顔つきって、こんなに大人びて見えるものなのか。少し戸惑いながらも、私は深く頭を下げた。
「本当に申し訳ありませんでした。コータが大変な迷惑をかけてしまって……」
拓也くんは黙って私を見つめていた。
そして、突然、口を開いた。
「おばさん、謝罪ならそれでいいけどさ。実は、ある提案があるんだよね」
その声のトーンに、ぞくりとした。
部屋に通され、向かい合って座る。拓也くんはギプスをした腕をテーブルに乗せながら、ゆっくりと話し始めた。
「俺、このままじゃ許せないんだよね。正直、痛いし、しばらく部活もできない。でも、おばさんが頼むなら……特別に許してあげてもいい」
私はほっと胸を撫で下ろした。やっぱり若い子は素直だ。
「ありがとう。本当にありがとうございます。何でもしますから」
その言葉を聞いた瞬間、拓也くんの目が変わった。
「何でも、って言ったよね?」
息が詰まった。
「実はさ、俺、おばさんのこと、ずっと前から気になってたんだ」
頭の中が真っ白になった。
「だから、一度だけでいいから……俺と、ね。そしたら、このことは全部なかったことにする。学校にも言わない。コータのことだって、もう二度と触れない」
声が震えた。冗談だと思った。二十歳の男の子が、母親の私に、そんなことを言うなんて。
「冗談ですよね……?」
「冗談なら、こんな顔してる?」
拓也くんはスマホを取り出し、何枚かの写真を見せた。喧嘩のときの傷のアップ。コータが暴力を振るっている決定的な瞬間。もしこれが学校や警察に回ったら、コータの進学も就職も、全部終わるかもしれない。
「どうする? おばさん」
選択肢なんて、最初からなかった。
コータのために、私は頷いた。
その夜、拓也くんの部屋で、私は自分の息子と同じ年頃の男の子に、体を許した。恥ずかしいとか、汚らわしいとか、そういう感情すら湧いてこなかった。ただ、コータの顔だけが頭に浮かんで、涙も出なかった。
終わった後、拓也くんは満足そうに笑った。
「やっぱり、おばさん、綺麗だよ」
私は黙って服を着た。鏡に映る自分の顔が、別人のように見えた。
家に帰ると、コータがリビングで待っていた。
「お母さん……ごめん」
私は笑った。無理に笑った。
「もう大丈夫よ。許してもらえたから」
コータは泣きそうな顔で、私を抱きしめた。
その腕の中で、私はもう母親じゃなくなったことを、はっきりと悟った。
あの日のことは、誰にも言えない。コータにも、もちろん拓也くんにも。これが私の選んだ道なら、一生背負って生きていくしかない。
でも、時々、夜中に目が覚めて、あの部屋の匂いや、拓也くんの熱を思い出す。体が勝手に反応してしまって、自分を呪う。母親である前に、女として反応してしまった自分が、許せない。
コータが笑うたび、あの日のことを思い出して、胸が締め付けられる。
私はもう、ただの母親じゃいられない。
それでも、朝が来れば、笑顔で「おはよう」って言うしかないんだ。

