『もういちど、お姉ちゃんと。』



『もういちど、お姉ちゃんと。』
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もういちど、お姉ちゃんと。
白坂さなはもう28歳になっていた。
会社では「白坂さん」と呼ばれて、部下のミスをフォローしたり、新人の教育係を押しつけられたり、いつもの日常だ。鏡を見るたび、昔より少し目尻が下がった気がして、ため息が漏れる。
10年前の夏のことを、忘れたことは一度もない。
近所の公園のブランコで、夕焼けがすごく綺麗だった日。
当時18歳だった夏川孝太郎が、顔を真っ赤にしながら言ったんだ。
「さな姉ちゃん、好きです。付き合ってください」
そのときのさなは22歳で、大学を卒業したばかりで、東京の会社に内定が決まってた。
地元に残るか迷ってた時期で、年下の男の子からの告白なんて、頭ごなしに「無理だよ」って言えなかった。
でも「好き」って返事もできなくて、結局「もう少し待ってて」って、逃げるように言ったまま上京した。
それっきりだった。
10年ぶりに地元に戻ってきて、ようやく落ち着いた矢先に、孝太郎が同じ会社に入ってきた。
新卒じゃない。中途採用で、しかもさなのいる部署に配属になった。
最初に顔を合わせたとき、さなは息が止まりそうだった。
背がぐんと伸びて、スーツが似合う大人びた顔になってる。
でも目だけは、あの日のままだった。
「お久しぶりです、白坂さん」
そう言って、普通に敬語で挨拶された。
さなは慌てて「う、うん、お久しぶり……」って返したけど、向こうはまるで初対面みたいに笑ってる。
それから半年。
仕事はスムーズに回る。孝太郎は要領が良くて、後輩のくせにさなより早く仕事が片付く。
さなは先輩として指導する立場なのに、なんだかんだ助けられてばかりで、内心すごくもどかしい。
ただ、孝太郎はさなに対して、妙に距離を取る。
必要以上の会話はしないし、飲み会の誘いも毎回断る。
他の女性社員とは普通に笑ってるくせに。
ある金曜の昼休み、休憩室でそれを見た。
孝太郎が、同期の彩花ちゃんと楽しそうに話してる。
彩花ちゃんが「夏川くんってほんと優しいよね〜」なんて言って、肩を軽く叩いてる。
孝太郎も照れたように笑って、何か返してる。
その瞬間、さなの中で何かがぽきっと音を立てた気がした。
……あ、忘れてるんだ。
10年前の告白なんて、もう記憶の片隅にもないんだ。
胸が締めつけられるみたいに痛くて、さなはそっとその場を離れた。
その夜、珍しく会社の飲み会に行った。
普段は「明日早いから」と断わるのに、今日は自分から「行くよ」って返事した。
ビールを何杯飲んだか覚えてない。
ただ、みんなが騒ぐ中、さなは黙々とグラスを空けてた。
頭がぐるぐるして、気持ちが沈んで、でも酒のせいで少し楽になった。
気づいたら、誰かに肩を借りてタクシーに乗せられてたみたいで。
次に目が覚めたのは、自分の部屋のベッドの上だった。
カーテンの隙間から朝日が差し込んでて、頭がズキズキする。
布団の中で体を起こそうとした瞬間、隣に人の気配を感じた。
「……え?」
そこにいたのは、孝太郎だった。
シャツの袖をまくって、さなの枕元に座ってる。
目が合った瞬間、孝太郎が小さく息を吐いた。
「おはよう。……めっちゃ飲んでたから、心配で付き添ってた」
さなは一瞬、頭が真っ白になった。
「な、なんで……ここに?」
「昨日、酔いつぶれて誰が送るかっていう話になって。
俺が『家知ってるから』って言ったら、みんな『おお、さすが!』って押しつけられた」
孝太郎は少し困ったように笑った。
さなは布団をぎゅっと握りしめた。
顔が熱い。昨日あんなに飲んだせいで、二日酔いの頭痛と、恥ずかしさと、いろんな感情がぐちゃぐちゃになる。
「……10年前のこと、覚えてる?」
ぽつりと、さなは呟いた。
孝太郎の表情が、ゆっくりと変わった。
驚いたような、懐かしそうな、ちょっと苦しそうな顔。
「覚えてるに決まってるだろ」
「……でも、忘れてるのかと思った」
「なんで?」
「だって、普通に接してくるし……他の子とも楽しそうに話してるし」
孝太郎はため息をついて、さなの横に腰を下ろした。
「さな姉ちゃんは、俺のこと年下のガキだと思ってたじゃん。
10年経って、急に昔のこと持ち出しても迷惑だろうなって……思ってた」
「そんなことない」
さなは慌てて首を振った。
「保留にしたまま、逃げたのは私の方だよ。
ちゃんと返事もしないで……ごめんね」
部屋に、しばらく沈黙が落ちた。
朝の光が少しずつ強くなって、二人を照らす。
孝太郎が、ゆっくりとさなの手を握った。
温かくて、ちょっと震えてる。
「もう一度、ちゃんと言わせてくれる?」
さなは息を呑んだ。
「俺、まだ好きです。
10年前と同じ気持ちで、白坂さなさんが好きです」
その言葉に、さなの目から涙がこぼれた。
止めようとしたけど、もうダメだった。
「……私も、好きだよ」
やっと言えた。
10年遅れで、ようやく言えた。
孝太郎が、そっとさなを抱きしめた。
ぎゅっと、子供のようにはしゃぎながら、大人の力で。
「もう、逃げないでね」
「うん……逃げない」
朝の部屋で、二人はやっと、同じ時間を始めた。
10年分の距離を、一気に縮めるように。
もういちど、お姉ちゃんと。
でも今度は、ちゃんと隣にいてくれる。

