「初汐ポラリス」
=======================
初汐ポラリス
最後にこの町へ帰ってきたのは、十年前だっただろうか。
あの頃はまだ小さくて、夏休みごとに新幹線に揺られてやってきた。駅を降りると潮の匂いがして、すぐに祖母の家が見えた。白い壁に青い屋根、庭にはいつも紫陽花が咲き乱れていた。
祖母が亡くなってからというもの、あの家は空き家のままだった。
取り壊す話も出たけど、誰も手を挙げなかった。父が「もったいない」と言ったのがきっかけで、結局、父の転勤がこの辺りに決まった。
だから私たちは、十年ぶりにあの家に戻ることになった。
引っ越しの荷物を運びながら、ふと向かいの家を見た。
表札は変わらず「佐藤」とだけ書いてある。
昔、いつもそこで待っていてくれた悠くんは、今もいるのだろうか。
──あの頃の記憶が、急に鮮やかになった。
夏の夕方、蝉の声がうるさいくらいに響く中、私はいつも縁側に座って本を読んでいた。
すると、向こうの塀の上にぽんと顔を出して、
「汐、今日も来たんだ」
って笑うやつがいた。
髪の毛がちょっと長めで、いつも日焼けしてて、目の下に小さなほくろがあった。
名前は悠。年は一つ上だったと思う。
一緒に川で魚を追いかけたり、夜の花火をしたり、自転車で坂道を競争したり。
別れる前日、二人で裏山に行って、星を数えた。
「大きくなったら、一緒にまたここに来ようね」
って約束したんだっけ。
子供の約束なんて、忘れられても仕方ないよね。
でも、私は覚えてる。
だから、ちょっとだけ期待してしまう。
引っ越しが一段落した夕方、玄関のチャイムが鳴った。
母が「誰かしら」と首をかしげながらドアを開けると、そこに立っていたのは、背が高くて、でもあの頃の面影をしっかり残した人だった。
「すみません、隣に越してきたんですけど……あれ、汐?」
声が少し低くなっただけで、すぐにわかった。
私も、思わず名前を呼んでいた。
「悠くん……?」
向こうも目を丸くして、それからゆっくり笑った。
「やっぱり汐だ。十年ぶりか……びっくりした」
その笑顔が、あの夏と全然変わってなくて、胸がぎゅっと熱くなった。
「覚えててくれたんだ」
「当たり前だろ。約束、ちゃんと覚えてるよ」
そう言って、悠くんはポケットから小さな貝殻を出した。
白くて、星の形に近いやつ。
「ほら、これ。昔、川で拾ったやつ。汐が『ポラリスみたい』って言ってたから、ずっと持ってた」
手の中で転がる貝殻を見ながら、涙がにじんだ。
十年って、長いようで、意外と短いんだなって思った。
それからというもの、毎日が少しずつ昔に戻っていくみたいだった。
朝、ゴミ捨てに行くと、向こうもタイミングを合わせて出てくる。
「一緒に駅まで行く?」って誘われて、並んで歩く。
通勤通学の時間なのに、なんだか学生みたいに笑い合ってしまう。
夜、庭で洗濯物を干していると、塀越しに声が掛かる。
「汐、今日も星出てるよ」
見上げる空に、確かに北極星が瞬いていた。
昔と同じ場所で、同じ星を見てる。
ある日、急に雨が降ってきた。
洗濯物を慌てて取り込んでいると、悠くんが傘を持って駆け込んできた。
「大丈夫? 濡れちゃっただろ」
そう言って、自分のジャケットをかけてくれる。
ちょっと大きい袖から、懐かしい匂いがした。
石鹸と、少しだけ潮の香り。
「ありがと……」
顔を上げたら、すごく近くて、ドキッとした。
悠くんも少し赤くなって、目を逸らした。
「汐、さ。約束、覚えてる?」
「うん……」
「大きくなったら、またここに来るって」
私は小さく頷いた。
「でも、もう来ちゃったよ。私たち」
悠くんが、ふっと笑った。
「じゃあ、次は……ずっとここにいようか」
その言葉が、すごく自然で、すごく嬉しくて。
十年分の時間が、一気に縮まった気がした。
雨音が静かになって、庭の紫陽花が濡れて光っていた。
あの夏と同じ色、同じ匂い。
でも、今はもう、子供じゃない。
「ねえ、悠くん」
「ん?」
「明日、裏山に行かない? 星、見に行こう」
悠くんが、昔と同じように笑った。
「いいよ。でも、今度は手、繋いでてもいい?」
私は、ちょっと恥ずかしくて、それでも頷いた。
初夏の風が吹いて、紫陽花が揺れた。
十年ぶりの帰郷は、思ったよりずっと温かくて、ずっと優しかった。
これから先も、この町で、この家で、向かいの人と、ずっと星を見続けられたらいいな。
ポラリスみたいに、ずっとここに。

