「寝・撮られ妻 過去の私を知る男」



「寝・撮られ妻 過去の私を知る男」
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寝・撮られ妻 過去の私を知る男
結婚して六年目になる。私は彩華、三十歳。夫の拓也とは共通の友人を通じて知り合って、付き合って一年でプロポーズされた。あの頃はもう、昔の自分を完全に捨てたつもりだった。専業主婦になって、朝は夫のお弁当を作り、夕方はスーパーの特売品をチェックして、夜は一緒に録り溜めたドラマを見る。ごく普通の、どこにでもいる奥さん。そんな日々が心地よかった。
でも、ある十月の夕方、インターホンが鳴った。ドアを開けると、そこに立っていたのは――健司だった。
「よお、久しぶりだな、彩華」
一瞬、息が止まった。八年ぶり、いや九年ぶりかもしれない。あの頃の彼はまだ二十代前半で、髪を茶色に染めて、いつも少し斜に構えていた。今は黒髪に戻して、スーツを着ている。営業マンらしい、ちゃんとした大人に見えた。でも、目だけはあの時と同じ、獲物を見据えるような光を宿していた。
「覚えてるよな? あの時のビデオ」
玄関先でそう呟かれて、膝が震えた。夫はまだ会社。家に誰もいない。健司は勝手に上がり框に腰を下ろし、スマホを取り出した。
「消したって言ったけどさ、バックアップはちゃんと残してあるんだよね」
画面に映ったのは、二十歳の私。アイリって名前で、短期間だけどグラビアとかビデオに出ていた頃の映像。恥ずかしいくらいに若くて、必死に笑おうとしてる自分がそこにいた。健司は当時のカメラマンだった。私が辞めると決めた時、「記念に」と撮らせてくれって頼まれて、断れなかった。あれが最後の一本だったはずだ。
「夫さんには、まだ言ってないんだろ?」
健司はニヤリと笑った。私は首を横に振るしかなかった。拓也は私の過去なんて何も知らない。結婚前に「昔はちょっと派手だったけど、今は普通の女の子だから」って笑って言っただけで、深く詐欺す必要もないと思った。実際、もう誰にも言われることはないと信じていた。
「で、どうする? これ、ネットに上げちゃってもいいんだぜ?」
冗談じゃない。でも健司は本気だった。昔からそう。欲しいものは何が何でも手に入れる。私の連絡先だって、どうやって調べたのか知らないけど、突然ラインが来たのが一週間前。「会いたい」って一言だけ。それを無視してたら、こうして家まで来られた。
「何が欲しいの?」
やっと声が出た。健司は少し考えて、こう言った。
「一回だけでいい。昔みたいに、俺の言うこと聞いてくれよ」
吐き気がした。でも、同時に変な諦めもあった。夫に知られたら終わりだ。拓也は優しいけど、こういう過去は許してくれないだろう。離婚になるかもしれない。親にも顔向けできない。
「一回だけ、だよ?」
震える声で聞いた。健司は満足げに頷いた。
それから一週間、嘘をつき続ける生活が始まった。夫には「実家に帰る」とか「友達と久しぶりに会う」とか、適当な理由をつけて家を出る。健司のマンションは駅から二十分の、少し古いワンルーム。初めて行った時、カーテンが閉め切ってあって、妙に懐かしい匂いがした。
「やっぱり彩華は可愛いな」
そう言われながら、昔と同じようにカメラを向けられる。抵抗する気力なんて、もう残ってなかった。ただ、終わらせたい一心だった。一回で終わるって約束だから。
でも、健司は約束なんて守る人じゃなかった。
二回目、三回目と、どんどん要求が増えていく。平日の昼間、夫が仕事に行ってる間に呼び出される。終わった後、健司は満足そうにビデオをチェックして、「これ、夫さんに見せたらどんな顔するかな」なんて笑う。私はただ俯いて、シャワーを浴びるだけ。
ある日、拓也が早く帰ってきたことがあった。慌てて隠したけど、スマホに残ってるラインの通知を見られたらどうしようって、夜中まで眠れなかった。夫は「最近なんか元気ないけど、大丈夫?」って心配してくれる。その優しさが、余計に胸を締め付けた。
健司からの最後のメッセージは、十一月の初めだった。
「もういいよ。飽きた」
たったそれだけ。あれだけ脅して、振り回して、結局「飽きた」だって。ビデオは本当に消したのか、バックアップは残ってるのか、聞く勇気もなかった。ただ、ホッとした。やっと終わったんだって。
でも、本当に終わったのかな。
鏡を見るたび、昔の自分が笑ってる気がする。アイリだった頃の、必死に強がってた私。結局、逃げ切れなかったんだ。あの時、ちゃんと全部消してもらえば良かった。健司みたいな男に、弱みを見せなければ良かった。
夫のご飯を作りながら、ふと思う。今日も普通に笑って、普通に「おかえり」って言えるかな。過去は本当に過去になるのか、それともいつかまた、誰かがドアを叩くのか。
窓の外、十一月の風が冷たい。カーテンを閉めて、電気ケトルのスイッチを入れる。普通の奥さんに戻るために、今日も必死に自分に言い聞かせる。
――あなたはもう、アイリじゃない。彩華なんだから。
でも、スマホの奥に、誰かが残したファイルがあるかもしれないと思うと、どうしても震えが止まらない。過去って、こんなに重いものだったんだ。

