「愚妻、再就職。」
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離婚の危機を乗り越えてから1年が経った。あの頃の夫婦間の溝は、今では遠い記憶のように感じられる。妻の美咲は無事妊娠し、仕事を辞めて家庭に専念していた。出産後は、赤ちゃんの世話に追われながらも、彼女の顔には穏やかな笑顔が戻っていた。子育ては大変そうだったが、美咲は我が子を抱きしめるたびに幸せそうに目を細め、俺もその姿を見るたびに胸が温かくなった。新しい家族が増え、ようやく平穏な日々が訪れたと思っていた。
我が家は、都心から少し離れた静かな住宅街にある小さな一軒家だ。朝は赤ちゃんの泣き声で始まり、夜は美咲が子守唄を歌う声で終わる。そんな日常が、俺にとってはかけがえのない時間だった。美咲は子育てに追われながらも、時折、昔のように冗談を言い合ったり、二人でコーヒーを飲みながら他愛もない話をしたりして、夫婦の絆を再確認していた。彼女の笑顔は、俺にとって何よりも大切な宝物だった。
ところが、ある日突然、美咲が「パートに出る!」と言い出した。相談もなく、唐突な宣言だった。驚いた俺は、理由を尋ねた。美咲は少し照れくさそうに、「ずっと家にいるのも悪くないけど、ちょっと社会とつながりたいの。それに、子育てだけじゃなくて、自分の時間も欲しいなって」と答えた。彼女の目はキラキラしていて、どこか新しい挑戦にワクワクしているようだった。俺は、彼女がそんな風に前向きな気持ちを持っていることに、素直に嬉しさを感じた。美咲のそういうところは、結婚した当初から変わらない魅力だった。
でも、心のどこかでモヤモヤした感情が芽生えていた。応援したい、彼女のやりたいことを尊重したい――そう思う一方で、俺の中に嫉妬のような、得体の知れない不安が渦巻いていた。美咲が外の世界で新しい人たちと出会い、俺の知らない一面を見せるかもしれない。そんな想像が頭をよぎるたびに、胸が締め付けられるような感覚があった。彼女はもう、俺だけの美咲じゃないのかもしれない。そんな馬鹿げた考えが、頭から離れなかった。
ある日、いてもたってもいられなくなった俺は、美咲に内緒で彼女のパート先を訪れることにした。彼女は近所の小さなカフェで働き始めたと言っていた。どんな場所で、どんな人たちと働いているのか、ただ知りたかっただけだ。そう自分に言い聞かせながら、俺はカフェのドアをそっと開けた。店内は、木の温もりが感じられる落ち着いた雰囲気で、コーヒーの香りが漂っていた。カウンターの向こうで、美咲がエプロン姿で笑顔で接客している姿が見えた。彼女は客と楽しそうに会話をしていて、その自然体な姿は、まるで昔の彼女のようだった。
だが、その時、俺の視線がある光景に釘付けになった。美咲の隣にいた若い男性スタッフが、彼女に親しげに話しかけ、彼女もまた笑顔で応じていた。二人はまるで旧知の仲のように自然で、俺にはその距離感がやけに近く感じられた。美咲がそんな風に誰かと話している姿を、俺は初めて見た。心臓がドクドクと脈打ち、頭の中がぐちゃぐちゃになった。嫉妬? 不安? それとも、ただの取り越し苦労? 自分でも自分の感情がわからなかった。
その夜、夕食の席で、美咲はいつも通り明るくその日の出来事を話してくれた。カフェでの面白いエピソードや、常連さんとの会話のこと。でも、俺の頭の中は、あの男性スタッフの笑顔でいっぱいだった。「ねえ、職場の人はどんな感じ?」と、できるだけさりげなく聞いてみた。美咲は無邪気に「みんないい人だよ! 特に、若い子たちが元気で、なんか新鮮な気分になる」と答えた。その言葉が、なぜか俺の胸に小さな棘を残した。
俺は美咲を信じている。彼女が家族を大切にしていることも、俺への愛が変わっていないこともわかっている。それでも、彼女が新しい世界で輝いている姿に、俺はどこか置いてけぼりにされたような気持ちになっていた。どうすればこのモヤモヤを解消できるのか。美咲とちゃんと話すべきか、それとも自分の心と向き合うべきか。カフェで見たあの光景が、俺の心に小さな波紋を広げ続けていた。

