「合鍵のケモノ3」
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合鍵のケモノ3
毎日が同じことの繰り返しで、朝起きて会社行って、残業して、疲れて帰るだけ。
そんな道すがら、いつも決まった時間にアパートの二階の角部屋の窓が灯ってるのを見上げるのが、唯一の小さな楽しみみたいになってた。
住んでるのは、たぶん二十代後半くらいの女性。
名前も知らない。顔も、遠目でしかちゃんと見たことない。
でも、俺が通りかかる頃にカーテンが少し開いて、彼女がこっちを見てるような気がして、軽く会釈するようになった。
向こうも小さく手を上げてくれるだけで、それがなんだか嬉しくて。
ある日、雪がちらつく寒い夜だった。
いつもの道を歩いてると、彼女が階段の下でゴミ袋を抱えて立ってて、明らかに困った顔をしてた。
「大丈夫ですか?」って声をかけたらいいのか迷ったけど、結局口に出してしまった。
「あ……鍵を、落としちゃって」
彼女、初めてちゃんと話した。声は思ったより低くて、少し掠れてて、妙に耳に残った。
それがきっかけだった。
俺が管理会社に電話してあげて、待ってる間、階段の踊り場で少し話した。
名前は「美織」さんって言うらしい。二十八歳。一人暮らし。
俺のことは「通りすがりの人」って笑ってたけど、毎日会釈してくれてたのは覚えててくれたみたいで、ちょっと照れた。
その夜から、変な夢を見るようになった。
美織さんの部屋に呼ばれて、ソファに並んで座って、気づいたら抱き合ってて、熱い息が絡まって、服が乱れて……。
目が覚めると布団の中で一人で息が荒くなってて、自分でも情けなくなるくらい繰り返した。
年末になって、俺は一度実家に帰った。
正月が明けて、久しぶりにあの道を通った日。
雪が残る階段を上る彼女の後ろ姿が見えて、思わず声をかけた。
「明けましておめでとうございます」
振り返った美織さんは、ちょっと驚いた顔をして、それから柔らかく笑った。
「帰ってきてたんだ。おかえり」
そのまま少し立ち話してたら、
「ねえ、ちょっと上がってってくれない?」
って、急に言われた。
部屋は思ったより片付いてて、暖かかった。
ストーブの前でコーヒーを淹れてくれて、向かい合って座る。
沈黙が続いて、俺が何か言おうとしたとき、美織さんがぽつりと言った。
「実は、お願いがあって……」
視線が絡まる。彼女の指が、テーブルの上で小さく震えてた。
「私、一人じゃ怖くて」
「この部屋に、誰かいてほしいの。夜だけでも」
理由は聞かなかった。
聞かなくても、なんとなくわかった。
最近、変な電話がかかってくるらしい。
窓の外をうろつく影を見たこともあるって。
美織さんは笑ってごまかしてたけど、目が赤かった。
「合鍵、作ってあるから」
そう言って、小さなキーをテーブルの上に置いた。
「来てくれる? 夜、仕事終わったら」
俺は、黙ってその鍵を握った。
冷たい金属が、掌の中でじんわり温かくなっていくみたいだった。
それから、俺の夜は、俺の帰り道が変わった。
会社の鍵を閉めたあと、コンビニで何か買って、階段を上る。
ドアを開けると、美織さんが「おかえり」って笑ってくれる。
最初は本当に、ただ一緒にいるだけだった。
テレビ見て、晩ご飯一緒に食べて、ソファで並んで寝落ちするだけ。
でも、ある夜、ふと目が合って、どちらからともなく近づいて、唇が重なった。
夢の中で何度も繰り返した感触が、現実になった瞬間だった。
震える手で服を脱がせ合って、ストーブの明かりだけの中で、熱を分け合う。
美織さんの背中が小さく震えて、俺の名前を掠れた声で呼ぶたび、胸が締めつけられるほど愛おしくなった。
朝になると、俺は先に起きてコーヒーを淹れる。
美織さんは毛布にくるまって、まだ眠そうな目で「行ってらっしゃい」って言ってくれる。
その声が、俺の一日の始まりを優しく包んでくれる。
怖がってた影は、もう来なくなったらしい。
でも、俺は鍵を返していない。
美織さんも、返してとは言わない。
ただ、毎晩、俺はこの部屋に帰ってくる。
この小さな角部屋が、俺の帰る場所になった。
合鍵は、俺のポケットの中で、いつも温かい。

