『どうやら僕は「性欲があることが異常すぎて死ぬほど心配される世界線」にやってきたらしい』
第一章:静寂の街と「異端の鼓動」
世界はある日を境に、あまりにも穏やかで、そしてどこか冷ややかな均一さを獲得していた。人々は他者に対して友情や尊敬、親愛の情を抱くことはあっても、誰かを焦がれるように求めたり、胸が締め付けられるような激しい感情に狂わせられたりすることがない。恋愛という概念は遥か昔の古い文学の中にのみ存在する「かつての過剰な奇病」であり、人々の関係性はどこまでも合理的で、穏やかで、そして清潔に保たれていた。
そんな世界線へとある日突然迷い込んでしまった主人公は、この社会における致命的な「異常者」だった。なぜなら、彼の中には誰かを強く愛おしく思い、手を触れたいと願う情熱――この世界では「極度の精神異常」として恐れられる感情が、変わらず渦巻いていたからだ。
周囲の人間は彼の微細な感情の変化を見逃さなかった。彼が誰かに対してほんの少し目線を長く向けたり、感情を揺さぶられて頬を赤らめたりするたびに、周囲は血相を変えて彼を心配した。「大丈夫かい? 今、脳の感情伝達物質が異常な数値を検出したよ」「すぐに横になって、精神を鎮めるセラピーを受けよう」――職場や街の至る所で、彼は過保護なまでの同情と哀れみ、そして深刻な懸念の視線に晒されることとなった。
彼自身は至って健康であり、ただ人を愛する感情を持っているに過ぎない。しかし、この社会においてはその感情こそが「脳を蝕む恐ろしい熱病」と同義だったのだ。周囲の親切心が重圧となって彼を追い詰める中、彼は自分の本当の感情を完璧に隠し通さなければ、いずれ矯正施設へ送られてしまうという強い危機感を抱くようになる。
そんなある日、彼は毎日のストレスを和らげるために訪れた図書館で、一人の女性と出会う。彼女は古典文学の棚の前で、静かに古い本をめくっていた。彼女の持つ静穏な雰囲気と、どこか浮世離れした佇まいに、彼は激しく心を揺さぶられる。そして同時に、彼の中に湧き上がる感情を察知した周囲の利用者が「彼がまた発作を起こしかけている」と騒ぎ始め、彼は絶望的な状況へと追い込まれていく。
第二章:測定不能な熱量と、差し出された手
パニックになりかける彼を救ったのは、まさに彼が視線を奪われていたその女性だった。彼女は冷静な手つきで周囲の人々を宥め、「彼の症状は私がよく理解しています。静かな場所へ連れて行き、落ち着かせますから」と嘘を告げて、彼の手を引いて図書館を連れ出した。
二人が行き着いたのは、街の喧騒から離れた古い静寂に包まれた公園のベンチだった。彼女は彼に向き合い、一切の怯えや同情を含まない、真っ直ぐな瞳で彼を見つめた。
「あなた、本当は病気なんかじゃないでしょう?」
彼女の言葉に彼は息を呑んだ。この世界で自分の感情を暴かれることは終わりを意味する。しかし、彼女の眼差しには恐怖や蔑みではなく、純粋な探究心と微かな温もりが宿っていた。彼女の名はユウ。古い文献や歴史的な心理学を独学で研究している人物だった。ユウは彼の手を握ったときに感じた脈拍の速さや、自分を見る瞳の奥にある強い情熱が、かつての時代に存在した「恋」と呼ばれる感情であることを見抜いていたのだ。
この世界の人々にとって、他者への執着や激しい情熱は「治療すべき障害」でしかない。だがユウは、全ての人間が平坦な感情しか持たないこの社会に対して、どこか物足りなさと疑問を抱いて生きていた。
「あなたのその感情は、この世界では絶対に知られてはならないわ。もし精神計測器に捕まれば、感情を平坦化する処置を受けさせられてしまう」
ユウは彼にそう警告し、彼がこの世界で正気を保ちながら生きていくための「隠蔽方法」を教えることを申し出た。こうして二人の秘密の交流が始まった。ユウは彼の感情のメカニズムを理解しようと彼に寄り添い、彼はユウと過ごす時間の中で、自分の素の感情を隠さずにいられる唯一の安らぎを見出していく。そして、ユウの優しさと知性に触れるたび、彼の中の情熱はさらに深く、強いものへと育っていった。
第三章:静寂を破る誓い
しかし、二人の穏やかな時間は長くは続かなかった。彼がユウに対して抱く感情が大きくなればなるほど、彼の体調や精神状態を示すバイタルデータは、街の監視システムにとって「深刻な異常値」として検出されやすくなっていったからだ。
ある夜、二人が静かな路地裏で話していた際、彼の胸の高鳴りが限界を超え、近くの自動診察ドローンが彼らを捕捉してしまった。アラート音が響き渡り、「重度の精神加熱状態を確認。直ちに保護と精神安定処置が必要です」という機械音が夜の空気に突刺さる。駆けつけた医療スタッフや通行人たちは、青ざめた表情で彼を取り囲み、「可哀想に、こんなに苦しんでいる」「早く楽にしてあげなければ」と、至極善意に満ちた顔で彼を拘束しようとする。
彼らにとって、彼の「愛するゆえの胸の痛み」は、一刻も早く取り除いてあげるべき悲惨な苦痛でしかなかったのだ。
取り押さえられそうになる彼を見て、ユウは意を決したように彼の手を強く握りしめた。彼女の指先は微かに震えていたが、その瞳にはこれまで見たこともない強い光が宿っていた。
「逃げましょう、一緒に!」
ユウは彼の手を引いて走り出した。善意の群衆と監視ドローンを振り切り、二人は街の外縁部にある、監視の目の届かない古い廃墟へと逃げ込んだ。息を荒らしながら暗闇の中で肩を寄せ合う二人。
ユウは自分の胸に手を当てながら、信じられないというように呟いた。「私の胸も、こんなに早く打っている……。恐ろしいからじゃないわ。あなたと一緒に逃げているから……これが、あなたが言っていた『感情の伝播』なの?」
平坦な感情しか知らなかったユウの中に、彼と過ごす時間を通じて、初めて「誰かを特別に想う」という熱が芽生え始めていた。世界全体がどれほど彼を心配し、その熱を消し去ろうと画策しようとも、彼女だけはその熱の意味を正しく理解し、同じ温度で応えようとしていた。
「世界があなたを異常だと呼んでも、私はその異常さを愛おしいと思う」
暗闇の中でユウが静かに語りかけた言葉は、この無菌で平坦な世界において、何よりも強烈で歪な、そして美しい愛の告白だった。彼はユウの手を深く握り返し、この歪んだ世界で二人だけの確かな感情を守り抜いて生きていくことを心に誓った。彼らの旅は始まったばかりであり、この先どんな困難が待ち受けていようとも、胸の中にあるこの温かな鼓動だけは決して渡さないと確信しながら。
『どうやら僕は「性欲があることが異常すぎて死ぬほど心配される世界線」にやってきたらしい』
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